社長のブログ

<プロフィール>大手不動産会社で長年、オーナー様に対して不動産の有効活用を企画、提案する業務に従事。札幌支社から福岡支社への転勤を契機に独立。平成11年(株)福岡シティを設立、現在に至る。趣味は歴史。司馬遼太郎記念館友の会会員。

「稲盛氏の教え」(令和4年9月20日 )

連休中に、社員のS君と二人で熊本に出張して、知り合いから頼まれていた中古のアパートやビルの現況調査をする予定でしたが、台風14号の襲来を受けて、中止しました。

実は物件調査のついでに五家荘に一泊して、それから天草まで足を延ばして舟釣りをして、二人で大物を釣り上げようと張り切っていたので、残念な限りでした。予定通りであれば、今回のブログで「天草での舟釣り」を紹介するつもりでしたが、別の話題を取り上げます。

 

先日、「経営の神様」として世界中から尊崇を集めていた稲盛和夫氏が享年90歳で大往生を遂げられました。今回のブログは稲盛氏への思いを書いて、お悔やみの言葉とします。

 

京セラやKDDIを創業し、日本航空の再建にも尽力された稀代の実業家である稲盛和夫氏の輝かしい人生は、ご本人の能力や努力によるものであることは自明ですが、やはり天に選ばれ、天命のままに生き切った幸運な人物の生涯だったと思います。

 

私は、ご生前、テレビで拝聴した程度の知識しかないのですが、その時のお話の趣旨は「私たちの心の深い所にある「真我」という無私利他の領域と、この宇宙を創造し動かしている根源の力(宇宙の心)とは、実は同じもので、私たちが無私利他の心で行動するとき、宇宙の心が感応して、私たちを助けてくれる。だから、利他の心が大事で、運命は、単なる偶然ではなく、実は自分の心の反映であり、自分の心が呼び寄せたものなのだ」。そんな内容でした。

しかし、上記のような稲盛氏の考えはもしかしたら私たち日本人には受け入れやすいものかもしれません。森羅万象、自然界のあらゆるものに神が内在する、海にも山にも川にも神が宿る,「おてんとう様が見てござる」といった日本人の一般的な宗教観と通底する部分があると思いました。

 

稲盛氏の思想は、おそらく日本人の伝統的な美意識や生命観、宇宙観の延長にあり、その発展であると考えます。氏は、人間としての正しい生き方を実践することが経営の基本だと強調しておられましたが、この人間主義人道主義の考え方は日本人が大事に守ってきた伝統的な価値観、倫理観に他ならないと思うのです。

 

稲盛氏の教えは、闇夜の灯として多くの人達を導き続けることでしょう。

「一灯をさげて暗夜を行く。暗夜を憂うなかれ、一灯を頼め。」(佐藤一斎

 

 

「映画『峠』を観て」(令和4年8月10日)  

先週の木曜日、中洲大洋劇場で、司馬遼太郎原作の映画「『峠』最後のサムライ」を観てきました。

 

戊辰戦争の戦闘のひとつである北越戦争が舞台で、幕末の風雲児、河井継之助の活躍を、役所広司の主演で映画化した作品です。

 

北越戦争で、軍事総督の河井継之助率いる長岡藩は徳川家に対する忠義から旧幕府側として奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦い、奮闘の末に敗れますが、継之助も銃創を負って落ち延びる途中で亡くなります。落ちる途中の峠道で継之助は「八十里腰抜け武士の越す峠」という自嘲の句を詠んでいます。

 

河井継之助についてはちょっとした思い出があります。

 

20年以上も前の事ですが、仕事の関係で、何度か渡辺通にあった公益法人の理事長様(A様と仮称します)とお会いしたことがあります。

A様は丸刈りで、古武士然としたご老人でしたが、歴史に詳しく、いろいろ教えて頂きました。そのお話の中で幕末の英傑の一人として、映画「峠」の主人公である河井継之助の名前も出ました。

 

そのときA様が河井継之助に関連して次のような趣旨の発言をされたことを記憶しています。

「腐敗した平安末期の貴族社会の底辺で「武士」が育ち、やがて鎌倉幕府を樹立して、武士の時代が始まり、私利私欲を恥とする「名こそ惜しけれ」という現代まで受け継がれる日本人の倫理観が生まれた。しかし、今の日本をみると、そういう気概が廃れ、私利私欲の国になってしまった。このままでは日本は衰退して滅びる。」

 

私が「日本は滅びますか?」と聞きなおすと、A様は「当然だよ!」と吐き捨てる様に言われました。

あれから20年以上が経過して、世間の様相はずいぶんと変わってしまいましたが、もし今、A様に対して同じ質問をしたら、どんな答えが返ってくるでしょうか?

「I氏の事」(令和4年7月4日)



突然の訃報でした。

先日の朝、管理物件のオーナー様であるI氏の奥様からお電話があって、I氏の急逝を知りました。I氏とは何日か前に電話でお話をしたばかりだったので、「ご主人様とは数日前にお話ししましたよ!」と少し声を荒立ててしまいました。

 

会社の事務員からも「Iさんと社長はどこか似ていますよね」と言われていたし、私もそう思っていました。分かり合えるものを感じていたので、本当に残念で、奥様と電話で話しながら、涙がうるんでくるのを止められませんでした。

 

I氏は時々弊社においでになり、2階の応接机でお話をお聞きする事がよくありました。知識が豊富で、話題は政治から経済、時事問題、文化にまで及び、不動産に関しても逆にご教示いただくことも多くいつも有意義な時間を過ごさせて頂きました。

 

ある時、ポピュリズムやら「ポストツルース」と言った現代的な課題に話が及んだ時に、学校や職場におけるいじめの問題について語られ、「いじめの実態は外からは見えにくくなっているよ。」と語られてから、「だから、見えないものを想像する力が必要なんだよ」と言われました。

 

これから先は私の非現実の空想です。

何年か先の晩秋のある日、I氏がまだご存命として、私が人恋しい気分で、宮島か耶馬溪あたりに紅葉狩りにでも行きましょうか、とI氏を誘ったと仮定して、しかし結局は近くの港のかもめ広場あたりのベンチに二人で腰を下ろして、近所のコンビニで買ってきた缶ビールを片手に、停泊中の漁船やら高層ビルの遠景やら、目の前を駆け回る子供たちの後ろ姿やらを眺めたりしながら、「宮島もいいけど、僕はやっぱりこっちの方が好きだな」と笑われるI氏の屈託のない笑顔を空想します。

ご冥福をお祈りしますとともに、長年の御厚誼に感謝申し上げます。

 

「松露饅頭」(令和4年6月27日)

一昨日は所用があって、佐賀県玄海町東松浦郡)に行って来ました。

 

あいにくの雨天で、時おり雷鳴がとどろく豪雨で、あいにく往路復路の景色を楽しむことはできませんでしたが、帰りに唐津で松露饅頭を二箱買って帰りました。一箱はお土産、一箱は自分用で買いました。

 

実は最近ストレスからか、右肩がちぎれるように痛いときがあって、その方面に詳しい友人に電話で相談したところ、その友人も頭痛がひどかったそうで、ロキソニンやら痛み止めの薬を飲んでも治まらず、医者に行ってもダメで、先日、饅頭を食べながら好きな音楽を聴いていたら、痛みが嘘のように引いたそうです。友人によれば、リラックスしたのでストレスが消えたからだそうです。

 

その話を聞いていたので、それならば私も饅頭を食べながら、大好きなテレサ・テンの曲でも聴けば肩の痛みも引いてくれるかもしれないと思って、松露饅頭を買ってきた次第です。

 

 

「菖蒲の花」(令和4年6月16日)

昨日の昼間、天神で私用があって、けやき通り~舞鶴公園を通って会社に帰りました。

途中、菖蒲の花の咲いている所があって、花好きの友人に写メを送ろうと思い立ち、車を停めて、路傍の1本を撮りました。



 

 

「こどもの日に思う」(令和4年5月6日)

連休中、家族は連れ立って旅行に出かけたのですが、私は、仕事が入ってしまって、連休中はほぼ毎日出勤しました。しかし昨日のこどもの日は早めに帰宅して、一人でテレビをみて過ごしました。そして、テレビに映し出されるウクライナの報道映像をみながら、一刻も早く戦争が終結し、ウクライナの子供たちにも平和が訪れることを祈りました。

 

夕方、旅先の妻から電話が入り、午後7時頃には空港に着くと言うので、コーヒーを一杯飲んでから車で福岡空港に向かいました。それから空港の駐車場に車を停めて時間をつぶしました。その車中で、ボブ・ディランの「Blowin’In The Wind」(風に吹かれて)を聴きました。

この歌では9つの問いかけが発せられていますが、そのうちの2つ(訳文)を記します。

 

「どれだけ多くの砲弾が飛んだら、それらは禁止されるのだろうか?友よ、答えは風に舞っている。答えは風に舞っている」

「どれだけ多くの耳があれば、人々の泣き声が聞こえるのだろうか?どれだけ多くの死者が出れば、あまりにも多くの人々が死んでしまったと気づくのだろうか?友よ、答えは風に舞っている。答えは風に舞っている」

 

Sさんのこと(令和4年4月1日)

「さまざまなこと思い出すさくらかな 芭蕉

 

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花散らしの雨が降る前にと思い立って、今週の水曜日の夕方、家族で舞鶴公園の桜を観てきました。桜は満開でしたが、例年参加している妻は参加せず、少しさみしい花見になってしまいました。実は今年の2月、妻の無二の友人であったSさんが交通事故の被害に遭って亡くなったのですが、妻は「桜を観るとSさんとの事をあれこれ思い出してしまうから」と言って花見を断ったのです。

 

Sさんと妻との付き合いは、平成6年の春、Sさんのご主人の転勤で,ご家族で札幌に異動になり、同じ時期に私も家族とともに札幌に赴任したときから始まります。住まいが近く、家族構成も似ていたこともあって、妻は、札幌での4年間、お互いの子供たちも挟んで、まるで家族同士のように打ち解けて、Sさんとの親交を育んだのです。

二人の友情は、それぞれの家族が札幌から福岡と千葉へと離れた後も変わらず、Sさんが亡くなるまでの28年間、間断なく続きました。

 

作家の伊集院 静さんの最新作「もう一度、歩きだすために」の新聞の広告文の一部です。「近しい友の死は、あとになって切ないほど自分の身に迫ってくるものだ。それでもともかく、人は歩きだすしかないのである」

 

さまざまな思い出が、走馬灯のように脳裏に浮かんでくるのでしょう。Sさんがなくなって以来、妻は毎日子供のように泣きじゃくっています。

しかし先日突然、「ピアノを習って5年で1曲弾けるようになって『街角ピアノ』をやるんだ。」と言い出して、どこかで中古の電子ピアノを買ってきました。泣いてばかりいても仕方がない、ともかく、歩きだそうと決断したのでしょう。

 

このブログを書いているとき、空耳でしょうか、天国のSさんの声が聞こえたような気がしました。もしかして同じ声が妻にも聞こえたかもしれないと思いました。「『街角ピアノ』のこと、グッドアイデアだと思うよ。佐伯さんならきっとできるよ。演奏を傍で聴けないのは残念だけど、28年間、楽しかったよ。ありがとう。」

 

Sさんとご家族の長年の御厚誼に感謝しますとともに、Sさんのご冥福を心よりお祈りいたします。